■ 渋沢栄一 年譜

1840年(0歳)
武蔵国(血洗島(ちあらいじま:現在の埼玉県深谷市)の豪農の長男として生まれる(幼名、栄二郎)。

1847年(7歳)
従兄の尾高惇忠(おだかあつただ/じゅんちゅう)のもとで、論語などの漢籍や日本外史などを学ぶ。

1858年(18歳)
尾高惇忠の妹・尾高千代(おだかちよ)と結婚。

1861年(21歳)
北辰一刀流(ほくしんいっとうりゅう)の剣士・千葉栄次郎の道場に入門する。

1863年(23歳)
遊学中に尊王攘夷の思想に目覚め、尾高惇忠や渋沢成一郎らと倒幕計画を企てる。しかし、尾高惇忠の弟・尾高長七郎(おだかちょうしちろう)から熱心な説得を受けて頓挫する。
渋沢成一郎と共に京都へ出奔(しゅっぽん)する。

1864年(24歳)
平岡円四郎からの推挙により、一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)のちの徳川慶喜(とくがわよしのぶ)の家臣となる。

1867年(27歳)
パリ万国博覧会へ出席する徳川慶喜の異母弟・徳川昭武(とくがわあきたけ)に随行し、フランスへ出立。

1868年(28歳)
江戸幕府が倒れたことにより渋沢栄一は、明治新政府の命でフランスから帰国。
同政府から謹慎を命じられ、静岡藩へ移されていた徳川慶喜に面会する。

1869年(29歳)
静岡に商法会所を設立する。明治新政府に仕える。

1873年(33歳)
大蔵省を辞め実業界へ。第一国立銀行(現在のみずほ銀行)を開業する。

1875年(36歳)
第一国立銀行の頭取となる。商法講習所を創立する。

1876年(37歳)
東京府養育院事務長となる。

1882年(42歳)
妻の千代がコレラに罹って亡くなる。

1885年(45歳)
東京養育院院長となる。

1888年(48歳)
伊藤博文(いとうひろぶみ)、勝海舟(かつかいしゅう)らと「東京女学館」を開校。のちに館長を務める。

1890年(50歳)
貴族院議員に任ぜられる。

1901年(61歳)
日本女子大学校を開校する。

1909年(69歳)
東京・大阪など6大都市の商業会議所を中心とした民間人51名を連れて、3ヶ月間に渡りアメリカ合衆国の主要都市を訪問し、民間の立場から、日本とアメリカの経済界を繋ぐパイプづくりに大きく貢献した。

1916年(76歳)
第一銀行の頭取などを辞職して、実業界を正式に引退する。
書籍「論語と算盤」(ろんごとそろばん)を著し、「道徳経済合一説」という考え方を提唱する。

1931年(91歳)
11月11日永眠。

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