■ 一橋家の家臣として、手腕を発揮

そもそも平岡が、栄一に家臣になるようすすめたのは、その能力を高くく買っていたからだ。
そし て平岡が見込んだ通り、栄一は一橋家で大きな活躍をすることとなる。
そのひとつが、財政の立て直しだ。
かつて、栄一が住んでいた村の領主が農民たちから借金をしていたように、一橋家もまた、金銭のやりくりには苦労をしていた。
そこで栄一はまず、一橋家が集めた年貢米の売却先を変更。
流通経路を見直して、米をより高くく売れる灘や西宮へ直接売ることにした。
さらに土地の特産品であった木綿を、江戸や大坂などの大都市で販売。
加えて、領地から産出される火薬の材料、硝石の製造所を建てるなど、さまざまな改革を試みた。
こうして、一橋家の財政を立て直す一方で、他の藩の藩士たちとも交流を深めた。
その代表格の一人が、薩摩藩の西郷隆盛だ。
西郷もまた、かつての栄一と同じ「尊王援夷」派だった。

「今の幕府の制度は古い。日本各地の藩にいる優れた人材を集めて、政治を改革しなくてはならない。
渋沢殿、貴公からも、そのように、慶喜公に働きかけてほしい。
そうすれば徳川幕府を倒さずとも、よい政治が行えるようになるに違いない。
一橋家の慶喜公は、徳川家の中でも最も優れた人物だと私は思う」

こうした、多方面での優れた仕事ぶりから、栄一は一橋家の「勘定組頭」にまで出世した。
その一方で、幕府を倒そうとする動きもまた激しく、なかでも長州藩と幕府は激しく戦っていた。
1866(慶応2)年、幕府軍を指揮する慶喜に仕える栄一も従軍の命を受けた。
しかし、その心の内は複雑だった。
3年前までは、尊王接夷の志士として幕府を倒すために命をかけていた自分が、今度は、尊王援夷をかかげる長州藩との戦いに命をかける立場になったからだ。

「一橋家の家臣となったからにはと、一途に会計をよくすることに力を尽くしてきたが、慶喜公が 出陣するのであれば、自分も行くしかあるまい。戦うからには、腰抜けと呼ばれたくはない」

だがその直前、九州方面の幕府軍が大敗したことで、慶喜はは出陣をとりやめた。
さらにこの年、14代将軍徳川家茂が病気で死去。
なんと、慶喜がその後を継ぎ、15代将軍となったのだった。

これには、栄一も驚いた。
一橋家の家臣どころではなく、かつてあれほど憎んだ、幕府の中心人物に、自分自身がなってしまったからだ。
『陸軍奉行支配調役』という重い役職まで与えられたが、 仕事は手につかなかった。

「慶喜公は優れた人物だが、近い将来、幕府はきっと倒される。
そうなったら、慶喜公もまたどう なるかわからない。
自分はいったいどうしたらよいのだろうか」

幕府が倒れ、諸藩から優秀な人材が集まって政治を行うようになった時、慶喜であればその一員に加わることもできるだろう。
そうなれば、慶喜を通じて自分の意見を国の政治に反映させることもできるに違いない。
しかし、慶喜自身が将軍となってしまえば、幕府が倒れると同時に、慶喜の政治生命も絶たれてしまう。
もはや、ここを去るしかあるまい、と栄一は考えていた。

【出典】
 Gakken
 マンガ&物語で読む偉人伝 渋沢栄一

 

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