■ 社会活動にも熱心に取り組む

かつてパリの街を見学した栄一は、そこで「衛生思想」がとても発達していることを知った。
明治になっても、東京はまだ井戸水を飲み水としていたが、その不衛生な水がもとで、1882年(明治15年)にはコレラが大流行。
約5,000人もの人が死亡し、その4年後に再び大流行した際には、約1万人が亡くなっている。
栄一の妻も、最初の流行の時に、コレラがもとで亡くなっていた。

「1日も早く、パリの町のように、飲み水が地下の鉄管を通る水道を作りたい」

栄一は、東京市の市長に強く働きかけて水道の敷設をうながし、これに力を尽くした。
さらに、一橋大学のもととなる学校を設立したことは先に述べたが、この他にも早稲田大学、同 志社大学、二松学舎(にしょうがくしゃ)大学などの創立に携わっている。
加えて、女子教育の必要性も強く感じており、 1901年(明治34年)には、日本女子大学校(現在の日本女子大学)の創立に大きく貢献した。
こうした、利益の追求を目的としない事業にも数多く取り組んだ栄一だったが、中でも、東京養育院の設立は、その最たるものであろう。
明治のはじめごろ、東京には働くところのない失業者や、食べる物のない人が大勢いた。
政府は そうした人々、約300人を収容する施設を設立したが、運営費はすぐに底をついてしまった。
困り果てた役人は、お金の使い方や集め方に詳しい栄一のもとへ相談にやってきた。
それはちょうど、 栄一が第一国立銀行の頭取という、最も責任の重い役職に就いていた時のことだ。

「利益にならないことなので、なり手がいないのですが、世の中の気の毒な人々のための施設とその資金の管理役を引き受けていただけないでしょうか」
そもそもこの施設は、
「なまけ者を養ってやる必要などない」
といった反対派の音一見を押し切っ て、役人時代に栄一が設立にこぎつけたものだ。
役人を辞め、すでに民間人として多忙を極めてい た栄一であったが迷わず言った。

「全力を傾けてお引き受けしたいと思います」

視察に行くと、そこでは仕事がない人も、精神を病んでいる人も、満足に体を動かすことができない老人も、そして親のない子どもも、ひとつの施設に収容されていた。
栄一はまず職員を集め、 子ども、老人、病気で生活ができない者の3種に分けさせた。
働くことのできる者には仕事を与え、 子どもには教育を施すようにした。

「この子たちのお父さんになったつもりで接してあげてください」

栄一の言葉通りに職員たちが子どもたちの相談相手になったり、一緒に食事をしたりするように なると、子どもたちはたちまち職員たちになつき、心を開いて話をするようになった。 数年後、栄一の努力によって東京府(現在の東京都)から予算が下りるようになると、栄一はこの「東京養育院」の院長に就任した。
施設は、ますます改善が進み、収容される人々も500人を超えるまでになったのだった。
その一方で東京府の議員の中には、この事業に反対する者も多くいた。
しかし、そうした反対派に対して、栄一は一歩も引くことなく、こう説明をした。
「彼らを救うのは、いっときの同情からではありません。社会の安全のためです。統計を見ますと、お米の値段が上がると犯罪が増えている。
生活が苦しくなるからです。つまり犯罪の原因のほとんどは、貧乏からきているということであり、社会が原因ということです。
ひとたび犯罪が起これば、 犯罪者の更生は困難で、警察や刑務所の負担もそれだけ増えることになります。
最初から犯罪者を 出さないようにすることは、道徳の上からも、社会政策の上からも得策ではありませんか」

これに反論できる議員はいなかった。
それでも予算がつかなくなると、栄一は民間から寄付を募った。
こうした困難な時期を経て、栄一は養育院の基盤づくりに大きな役割を果たした。
その後も栄一は事業を推し進め、難病患者のための独立した病室「回春病室」を、非行少年のた めに「感化院」(現在の児童自立支援施設)を、失業者のために「職業紹介所」を、結核患者のた めには「板橋分院」を作るなど、それぞれの問題に即した社会事業を展開した。

【出典】
 Gakken
 マンガ&物語で読む偉人伝 渋沢栄一

 

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