■ 実業家として第一線を退いた後に

こうして、経済活動だけでなく、教育、福祉の方面でも大車輪の活躍をした栄一。
しかし、功績は国内だけにとどまらない。
日米の親善にも、栄一は多大な貢献を果たしている。
栄一は70歳を過ぎてから、3回にわたってアメリ力を訪問した。
有名な石油王、ロックフエラーや、アメリ力大統領とも何度も会い、親善の努力を続けたのである。
アメリ力からは、

「グランド・ オールド・マン(偉大な老人)」

と呼ばれ、またその功績から、栄一は2度にわたって、ノーベル平和賞の候補に挙げられている。
そして1923年(大正12年)、関東大震災が起きたあとには、すぐに大震災善後会副会長に就任 し、その復興に尽力した。
1930年(昭和5年)、91歳になった栄一は風邪で寝込んでいた。
冬の寒い日の夜、突然20人もの団体が栄一を訪ねてやってきた。
主治医が止めるのも聞かず、栄一は彼らに会った。
その団体は、全国方面委員(現在の民生委員)だった。

「今も全国に、寒さと飢えに苦しむ人々が20万人もいます。
ご存知の通り政府は彼らを救う救護法を作りましたが、予算がないためかいっこうに実施されていません。
政府にも陳情しましたが返答は、なしのつぶてです。
万策尽き果て、こうして渋沢先生のもとに参りました」

話を聞き終えた栄一は

「できるだけのことはいたしましょう」

と答え、すぐに自動車を用意させ、 大蔵大臣と内務大臣に面会の申し込みの電話を入れた。
両大臣は驚き、ともに、栄一の年齢と病気のことを思い、事務官を差し向けると言った。
しかし栄一は、

「それはいけません。当方からお願いする件ですから、こちらから参上します」

と、筋を通したのだった。

「私は思わず頭を下げました。
あの老躯(老いた体)で寒中に病をおし、同胞を救うためにご自分の苦痛を忘れ、わざわざ訪ねてこられたその至誠(しせい)、その熱情を思うと、心の底より敬意を表さずにはおられなかった」

この時の栄一のことを、のちに内務大臣はこう語っている。
それから1年後、栄一は91歳の生涯を閉じ、その1ヶ月後に救護法は施行されたのだった。

 栄一は言う。

「死ぬときに残す教訓が大事なのではなく、生きている時の行動が大事なのだ」

栄一の墓は現在、東京・上野にある谷中霊園で、かつて仕えた15代将軍 徳川慶喜の墓のすぐ近くに置かれている。

<完>

【出典】
 Gakken
 マンガ&物語で読む偉人伝 渋沢栄一

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