■ 明治政府の官僚として活躍

会社が発足した年のある日、栄一は明治新政府に呼ばれて東京へと向かった。
現在の財務省にあたる、民部省という役所で、租税正(そぜいかみ)という役職に就いてほしいという話であった。

「かつて慶喜公から恩義を受けた者として、新しい政府に仕えるわけにはまいりません」

断る栄一を引き留めたのは、説得が上手だとされる大隈重信だった。
のちに早稲田大学を創立し、内閣総理大臣も務めることとなる人物である。大隈は言った。

「これは日本のためになる仕事だ。
日本のために仕事ができる渋沢さんを今、日本が求めているのです。
慶喜公もきっと喜んでくれるに違いありません。
前例もなければ手本もないところから、一緒に新しい国を作りましよう」

さらに、過去のいきさつは関係ないと語る大隈の説得により、栄一は新政府での仕事にその身を投じることに決めたのだった。
政府自体が新しく、誰もが何をしてよいのか分からない中、栄一はまず組織を整えることを大隈に提言。
大隈はさっそく各部署からメンバーを集め、「改正掛(かいせいがかり)」という特別チームを作ると、栄一をそのリーダーに任命した。
チームは、

「かつての幕府の家臣が上司になるなんて」

と反発したが、やがて栄一の優秀さに気づくと、彼らはみな、栄一についてくるようになった。
栄一は、矢継ぎ早に行われつつあった、さまざまな改革の先頭に立った。
米をはじめとする、さまざまな製品を取り引きする基準となる重さや長さ、容積などの単位の基準を確立し、国内で統一するよう提案。
また、前島 密とともに、郵便事業の基礎となる事業も提案した。
さらに、大隈とともに、新しい貨幣制度を準備。
両ではなく「円」を新たな単位と定めた「新貨条例」の公布を進めた。
また、政府が進めていた製糸事業のプランにも加わり、群馬県富岡に、西洋式の製糸工場を建てることとした。
この建物は後に「富岡製糸場」として、世界文化遺産に登録されることになる。

気がつくと、日本の財政を取り仕切る組織の中で、2番目に高い地位にまでなっていた栄一。
しかしその一方で、他の省庁とは意見が対立するばかりであった。
そもそも、幕府を終わらせ新政府の立ち上げをけん引したのは、かつての薩摩藩と長州藩だ。
当然、新政府は両藩出身の人々によって牛耳られており、国全体の予算も彼らが取り仕切っていたのである。

栄一は、役人が嫌になり始めていた。
かつて、日本の行く末を思い立ち上がった尊王の志士たちの多くは政治家となった。
しかし栄一は、フランスでの視察の体験から、いずれは実業家になろうとしていた。
政府側の人間ではなく、民間の立場から事業を盛り上げたいと考えていたのだ。

しかしその前に、どうしてもやらなければならないことがあった。
銀行の設立だ。
これまでの日本になかった新しい組織、銀行。
それは人々から信頼されるものでなければならない。
そのためにはまず、ルールを作る必要があった。
こうして栄一を中心に作成されたのが、銀行の設立にあたってのルールを示した「国立銀行条例」だった。

この条例が発表されるのと同時に、栄一は、銀行とは、そもそもどんな組織であるのか、それを分かりやすく説明した広告を作った。

「銀行とは、大きな川のようなものだ。役に立つこと限りがない。
しかしまだ銀行に集まってこないうちの金は、溝にたまっている水や、ぽたぽた垂れているしずくと変わりがない。
時にはお金持ちの家の蔵の中にかくれていたり、働く人々やお婆さんの財布にひそんでいたりする。
それでは人の役に立ち国を豊かにさせる働きは現わさない。
水に流れる力があっても、土手や丘にさまたげられていては、少しも進むことはできない。
ところが銀行をつくり、上手にその流れ道を開くと、蔵や財布にあった金がより集まり、大変多額の資金となるのだ。
そのおかげで貿易も繁昌するし、製品もふえるし、エ業も発達するし、学問も進歩するし、道路も改良される。
すべての国の状態が、まるで生まれ変わったようになる」

この呼びかけに応じて集まった、銀行設立に協力する株主は、71人。
三井組や小野組といった大商人から、ごく一般の市民まで、さまざまな人々が名を連ねた。
こうして役人の立場から、銀行づくりのルールを確立し、銀行とはどのようなものであるかを人々に示したのち、栄一は役人を辞めた。

「社会の進歩を指導する力の源は、政治ではなく、実業だ。
実業が成功するかしないかは、国家が豊かになれるかなれないかに、大きな関係がある」

 そう、栄一は語っている。

【出典】
 Gakken
 マンガ&物語で読む偉人伝 渋沢栄一

 

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