■ 慶喜の命により、フランスへ!

ちょうどその頃、フランスのパリで万国博覧会が開かれることになり、日本もこれに招待された。
慶喜は、幕府の使節代表として、自らの弟である昭武を派遣することにした。
さらに数年間、昭武をパリに留学させることを決め、その事務官、つまりお供として、当時27歳となっていた栄一を直々に任命したのだった。

かつては尊王撰夷派として、 外国との付き合いに猛反対していた栄一だったが、この頃には、軍事力などでとうてい外国には勝てないことを理解していた。
フランス行きの話が来た時には、むしろ外国のことをもっと知りたい、その文明に触れてみたいとまで思うようになっていた。
将来を見据えて幕府を去ろうとしていた栄一にとっては、やがて訪れる新しい時代に向けて外国の文化を学べることは、願ってもないチャンスだったのだ。
1867 (慶応3)年1月、栄一は昭武らとともにフランスの船、アルへー号に乗ってパリへ向 かった。
到着まで、およそ3カ月の旅である。

「これが、力ッフエー、豆を煎じた湯か」

船の中で飲んだコーヒーのことを、栄一は日記に記録した。
生まれて初めてのコーヒー、パン、そしてバター。
そのどれもがおいしかった。
そういえば西郷隆盛も、ふつう日本人は食べない豚肉の鍋をおいしそうに食べていたことを思い出した。

「外国と同じものを食べなければ、戦をしても勝てん」

そう言った西郷の思いと同じく、相手をよく知ることこそが大切だと、栄一は思った。
羽織袴で 腰に大小の刀を差していた栄一は、出港してしばらくすると、最初に立ち寄った香港で、さっそく えんび服としま模様のズボン、革靴を履いて船のデッキに立った。

「渋沢さん、それは儀式のときに着るものです」

親切な外国人に言われ、栄一は、洋服にも普段着と礼装があることを知った。
何もかもが初めての体験だった。
香港では、学校、病院、造幣局などの建物を見学。
そして船はマラッ力海峡、インド洋を経て、紅海の奥深くへと進んでいった。

ここで栄一は、驚くべき光景を目にする。
当時はまだ建設中だった、スエズ運河だ。160キロメートルにもわたって陸地を掘って水路を作り、紅海と地中海を結ぶ。
これによって、船はアフリ力大陸を大回りすることなく、ヨーロッパとアジアを自由に行き来できるようになるという、画期的なエ事であった。
その壮大な事業に、栄 一は圧倒された。

「数えきれないほど多くの人々がここで働いている。
これほどの運河を作るには途方もない経費がかかるはずだが、そのお金はどうやって集めたのか…。
幕府や将軍などよりも、もっと大きな権力があって、人々からお金を吸い上げているのだろうか」

かつて、領主に500両を払わされた時の思い出が、栄一の脳裏をよぎったかもしれない。
こうして、船は地中海に抜け、日本からの一行はマルセイユ港に到着。
リヨンを経て、ついにパリに着いたのだった。
行きかう馬車、大きくそびえたつ凱旋門、石造りのきれいな街並み。
栄一はさっそく、郷里で剣術を教えてくれた従兄に手紙を書いた。

「西洋の文明は聞いていたよりも数倍上で、驚くばかりです。私はこれから、より深く外国人と接して、よいところを学び取り、日本のために役立てたい。
このままでは日本は、世界から後れを取るばかりです」

姿かたちから西洋人になりきらなくてはならないと考えた栄一は、ちょんまげを切り落とし、その姿を写真に収めると、日本に残してきた妻、千代に送った。
変わり果てたそその姿に、千代は「あさましい」と、嘆き悲しんだという。

【出典】
 Gakken
 マンガ&物語で読む偉人伝 渋沢栄一

 

STORY

CONTENT