■ NHK大河ドラマ「青天を衝け」特集ページ

(放送)日曜日
 総合午後8時
【BSプレミアム】午後6時

(再放送)土曜日
 総合午後1時5分

■ 渋沢栄一 人生行路

1840年3月16日、武蔵国榛沢郡(埼玉県深谷市)の渋沢家に長男として生まれる。
渋沢家は、藍玉(染料)の製造販売や養蚕、米、麦、野菜の生産も手がける豪農。

14歳から単身で藍葉の仕入れにも出かけるようになり、この時の経験が後にヨーロッパの経済システムを吸収しやすくする素地を作り出した。

1858年、19歳で結婚。1861年に江戸に出て儒学者、海保漁村の門下生となる。また、北辰一刀流、千葉栄次郎の道場に入門。剣術修行のかたわら勤皇志士と交友を結ぶ。 やがて尊皇攘夷の思想に目覚め、1863年、高崎城を乗っ取って武器を奪い、横浜を焼き討ちにしたのち長州と連携して幕府を倒すという計画をたてる。しかし、親族の説得により中止。

その後、京都に上るが、1863年に長州藩ら勤皇派が京都から追放されたことにより志士活動に行き詰まり、江戸遊学時代に交際のあった一橋家家臣の推挙により一橋慶喜に仕えることになる。

1867年、慶喜が将軍となったのに伴い幕臣となり、パリ万国博覧会に出席する慶喜の弟の随員としてフランスへ渡航。パリ万博のほか、ヨーロッパ各国を訪問し、先進的な産業・軍備を視察。 将校と商人が対等に交わる社会を見て感銘を受ける。

1867年11月、徳川慶喜は大政奉還を建白。
新政府から帰国を命じられ、1868年12月に帰国。静岡に謹慎していた慶喜と面会し、慶喜より「これからはお前の道を行きなさい」との言葉を拝受。

明治2年(1869年)、フランスで学んだ株式会社制度を実践するため、静岡に商法会所を設立。しかし、大隈重信に説得され、同年大蔵省に入省する。 大蔵官僚として、度量衡の制定や国立銀行条例制定に携わる。しかし予算編成を巡って、大久保利通や大隈重信と対立し、1873年に井上馨と共に退官。

退官後、官僚時代に設立を指導していた第一国立銀行(第一銀行、第一勧業銀行を経て、みずほ銀行)の頭取に就任する。
以後、東京海上火災保険、王子製紙、東急電鉄、秩父セメント、帝国ホテル、東京証券取引所、キリンビール、東洋紡績など、多種多様の企業の設立に関わり、その数は500以上といわれている。

しかし他の財閥創始者と異なる点は、渋沢財閥を作らなかったこと。
 「私利を追わず公益を図る」
との考えを生涯に亘って貫き通し、後継者にもこれを固く戒めた。

社会活動に熱心で養育院の院長を務めたほか、東京慈恵会、日本赤十字社などの設立にも携わった。
商業教育にも力を入れ、一橋大学、東京経済大学の設立に協力したほか、女子の教育の必要性を考え、伊藤博文、勝海舟らと女子教育奨励会を設立。 日本女子大学、東京女学館の設立に携わった。

 1931年11月11日
 渋沢栄一は91年の生涯を閉じた。

現代経営学の発明者と称されるピーター・ドラッカーは渋沢について、「率直にいって私は、経営の『社会的責任』について論じた歴史的人物の中で、かの偉大な明治を築いた偉大な人物の一人である渋沢栄一の右に出るものを知らない。
彼は世界のだれよりも早く、経営の本質は『責任』にほかならないということを見抜いていたのである」と述べている。
    出展:Wikipedia(日本語)


2024年に新1万円札の肖像画にもなる、渋沢栄一翁。
1840年に現在の埼玉県深谷市には生まれてから91歳で亡くなるまでの間に数多くの功績を残してきました。
第一国立銀行をはじめ500余の企業の設立に携わり、社会福祉事業にも600以上関わっています。
“近代日本経済の父”と呼ばれた渋沢翁は、国内外にも大きな影響を与えました。
また、渋沢翁は2021年の大河ドラマの主人公にも選ばれており、今、注目されている偉人と言えます。

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⇒ 第1話

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